保護司

保護司という役

自分が保護司になってから通算何年になるだろうか。

最初は、町内のある人(この方は保護司でした)に、自分の意思に関係なく勝手に推薦され、騙されたように拝命し、その後10年間やりました。 この推薦した人はちょっと癖のある人で、何が原因かわからないけれども、急に「俺が推薦してやったのに、言う事を聞かないのは生意気だ!」と何回も言うようになりました。それほど言うならと、ちょうど10年くらいやったからと辞めました。 その頃に自分は脳梗塞に罹り、立て続けに網膜剥離、不整脈、狭心症、交通事故、脊椎管狭窄症と重なって、実際、保護司としての職務は果たせなかった時期と重なっています。

最初の保護司をやっている最中は、自分は保護司会の会合には極力出て、お手伝いさせてもらいました。対象者にはいろいろな人がいました。いろいろなことがありました。そして、保護司の皆さんは、保護司の仕事に誇りと使命感を持っていらっしゃいます。素晴らしい方々です。 

辞めて約8~9年たったころに、最初一緒に保護司になった方(T氏)から、「すごく忙しいんだよ。俺を助けてくれよ」と言われました。このころ、T氏は保護司会の分区長という役に付いて、板橋保護司会の理事でもありました。一番最初に自分を推薦した、いわくのある先輩保護司が定年で辞めたので、T氏の手伝いが出来れば、という思いから、もう一度保護司をやることにしました。

そのような事で初任からは30年近くになりますか。最初の保護司をやめた時に、保護司関係の書類を全部、何も残さず、完全に廃棄しているので、その時の資料が全く無いのです。だから、初任がいつだったとかもわかりません。辞め方も先輩保護司との軋轢だから、なおさら思い出したくもありませんでしたし、残すつもりは全くありませんでした。それに保護司の守秘義務もあります。

そのような経過なので、経験年数はそこそこなのですが、新米保護司の立場でやっています。すごく気が楽です。過去の病気を理由にして最低限必要な会合には出ていますが、月に1回あるかないかくらいの頻度です。 今年になってまた再任の手続きをし、この5月に再任されました。 

実のところ、女房殿が一昨年の10月から富津で病気療養しているので富津にも通わなければならないし、岡田建設の仕事をやりながら、炊事・洗濯・掃除など雑多なことをやらなければならないし、「もうやめようかな」と考えていたのです。 そしたらば、自分はいつの間にかこの地区の保護司の中で年齢が一番上になっていて、「現役保護司の大先輩としてみんなを、大所高所から見てやってくださいよ」などとおだてられ、再任の手続きをしてしまった次第です。 おだてられると木に登ってしまう豚。そのままです。 

2回目に保護司になってから、担当した対象者の中には、自分を慕ってくれて、一年一度くらい会いに来るのがいます。うれしいものです。これが保護司の醍醐味なのでしょうか。

-雑記帳
-,