東日本大震災 3.11イメージ

8年目の3月11日に思う

3月に入ると、テレビ、新聞などで東日本大震災の事を流すことが多くなります。もう8年経ちました。自分は、今でも、あの時の状景を見るのがつらくて、見ないときのほうが多い。ダメだよなあ、と思う。

あの日は、建築関係の見本市が、東京ビッグサイトで開かれ、一年半前に小脳梗塞で倒れて以来の初めての遠出でした。
まだ、さっさとは歩けなかったので、ゆっくりと歩いて見て回っていました。真ん中辺に、ある面白そうと思った建材ブースがあったので、名刺交換をして頭を下げたちょうどその時に、あの地震が起こりました。最初、「あ!めまいだ、あの時と同じだ、またやった、来るんじゃなかった。まだ駄目だったんだ。」という思い、その次に「あれ!違う、地震だ、脳梗塞じゃない、良かった」そして、揺れがどんどんひどくなり、「まずい、どうしよう。揺れていて動けない」そんなようなことを思った時間はほんの数秒ではなかったかと思います。

皆が外のほうに逃げていく。次男と一緒に来ていたので、壁際まで連れて行ってもらい、そこで様子を見ていました。天井から何か大きな金物がガシャガシャと落ちてくる・・。幸いにしてその下には誰もおらずけが人が出す本当に良かった。ふと気がつくと、自走車椅子の人が、逃げる人たちの中で、なかなか進めなくて苦労していた。一緒にいた次男も、「どうにかしようと思ったけれども、おやじと一緒だから、助けに行けなかった」とあとで悔やんでおりました。

有明からは橋を渡らなければ帰れない。帰りの幹線道路は大渋滞。歩道を歩く人が増えてきた。動かない時間が長い。このままこのルートでは、家に着くのがいつになるかわからないと思い、できるだけ裏道を行く事にした。とにかく、家の方角に向かって、思いつくがままに細い道を通って家まで帰りつきました。途中、歩道を歩く人たちがどんどん増えていきました。4時間ほどかかりました。通常、早ければ30~40分、かかっても1時間半です。これも後から思うと8時間以上かかってもおかしくない状況だったように思います。その時に思ったことは、東京というのは、建物ががっちりしているな、という事。狭い4m道路も走ってきたのだが、建物が倒れていないから帰って来ることが出来た。そして、そんなときでも、日本人の規則を守ろうという心持はすごい。都外方面(下り)に向かう車線はびっしり。上り方面の車線には車がほとんどいません。それなのに、上り車線を通る車はおりませんでした。

帰ってからは、テレビにくぎ付け。その時点での放送は、ただ巨大地震が発生し、東北地方の太平洋岸が大津波に襲われた、という事を言うだけ。少しづつ、現場からという映像も流されるようになった。 インターネットとか、メールとか考えられることをすべてやりました。どういうわけか、イギリスに住んでいる従弟からの情報が正確で速かったです。

自分の父親は岩手県陸前高田市出身、母親は岩手県大船渡市出身、妻も大船渡出身で義母と義姉も住んでいました。 親戚がどうなったのか心配で、状況を知りたかった。7人兄弟であった父の兄弟妹の内、兄と弟、妹二人は、その時すでに亡くなっていましたが、その家族は、陸前高田の市街地周辺に住んでいました。 叔母二人も陸前高田で暮らしていて、いとこなど血のつながっている人は、30人以上いました。母方は、大船渡市内に二人の叔母、叔父がいました。いとこは周辺に10人くらいいます。そのほかにも親戚は多く生活していました。妻の親戚も20人くらいでしょうか。

翌朝のテレビでは、変わり果てた陸前高田の市街地と大船渡の様子が映し出されていました。その時たまたま、大船渡市内ですという画面が出て、叔母の住んでいた家の一本隣の道路が映っていました。倒れずに立っている電柱の電線に、海藻、ごみが絡まっている。避難していてくれるんだろうな、そうじゃないと・・。電話は通じない。

福島原発の全電源が切れ、制御不能になったという。ある人からは、原子炉がメルトダウンするという話を聞いた。原子炉が爆発したら、岩手に行けなくなってしまう、という事も考えた。実際、その後すぐに常磐道、国道6号は通行止めで、長い間解除されなかった。

東日本大震災 3.11イメージ

結果的には、家は流されたけれど、私の親戚関係では、命は助かった人が多かったが、残念ながら、従妹で一人が亡くなってしまいました。後から、その従妹のその時の様子を聞くと、「自分は逃げない、みんなは逃げて」と言って留まったという事でした。

ある従弟の奥さんと、子供二人は、数日屋根の上で海を漂い、一人の息子が助かったとか、 ある叔母は、津波が来るとは思いもしなかった山に近いところに住んでいたのですが、水が来て、逃げるとき、車が浮いてダメかと思ったそうです。少し高いところだったので流されなくて済みました。

岡田の本家の菩提寺の住職さん一家五人は津波で流されて、副住職さん一人だけが畳にしがみついていて、助けられたということでした。その副住職の娘さんが、海岸でトランペットを吹いている写真が新聞に載りました。

叔母の一人は、「長生きすると(叔母は92歳)3回もこんな目に合わなきゃならない。」(昭和初めの大津波、チリ地震津波、そして今回)と言っていました。そのようなことの話を、あとから聞いたとき、本当に何も言えなかった。 他にもいろいろな話を聞きました。

長男が、4月1日に冬用の暖かい下着類(もう3月だと近くの洋品店には冬用は置いてないので老人の原宿と言われている巣鴨まで買いに行きました)、カセットコンロ、ボンベ(そこらじゅうの、売っているだろうお店を探し回って8セットほど)、ホカロン、そして、家に置いておいた、父と母の形見の品々(老眼鏡、杖、折り畳みの車いす)、などなどを車に満載して行ってくれました。そのころには、ある程度連絡が取れるようになり、とりあえずほしいものと言われた品物、必要だろうと思った品物でした。

長男は「チョー怖かった」そうです。高速道路は福島に近づくにつれて段差がひどくなり、道路に亀裂も入っていたりしていたとのことでした。二つの予備タンク(20L缶)にガソリンも積んでいかせたのですが、後日「怖かった」と何回も言っていました。

到着してから長男からの電話で、「今、山のほうにいるけど海のにおいがする」という言葉が印象的でした。その後も1か月に1回程度、次男が行ってくれました。夏になり、叔母からの話で、ハエが歩きまわっている、というのを聞きました。ハエ(ウジムシ)の食べるものがいっぱいあり、食べ過ぎで太って、ハエになっても飛べないのだという事でした。ハエ取り紙が2日で真っ黒になるとか、虫がすごいというので、すぐに薬局を駆けずり回り、友人の薬局からも協力をもらい、殺虫剤などを集めて長男に持たせました。

お施主さん方からも、岡田の出身が岩手であることを知って下さっていて、いろいろとご支援をいただきました。改めまして、あの時色々ご支援をしてくださった皆様には本当に感謝しております。ありがとうございました。

その時のことで、本当に気が回らないなあ~と思ったことがあります。

  1. ズボンを頂き、それも送りました。あとから言われました。それさえあまりなかったそうですが、ひもを使ったという事です。 ベルトを送りませんでした。
  2. 電話で何か必要なものがありますか?などと聞きました。バカでした。全部流されて、身一つで逃げた人に聞くことではなかったです。何もないんです。そんなことも想像できないバカでした。
  3. 着るものー上下の下着類、上着、セーター、ズボンなどを送りました。抜けています。靴や靴下がないのです。

他にもいろいろとありました。東京にいて、想像しているだけでは全くわかりませんでした。

復興計画は、中央からの指示ではなく、全くその地方に任せるべきです。実情がわからないんです。

自分は脳梗塞の後ですぐには行けず、陸前高田、大船渡に行ったのは、大震災から一年以上たってからでした。陸前高田から大船渡に行くとき、市街地内のいつも通る海岸沿いの国道45号線は通ることが出来ず、それまで全く通ったことがなかった山沿いの広域農道を通りました。山から見える高田の町はきれいになくなり、ところどころにコンクリートの建物が残っているだけでした。そして、旧市街地の様子は、土木建設機械のデモストレーション会場のようにいろいろな重機が動き回っていました。

大船渡の港町を、高台を通っている国道から見た様子も同じでした。ただ、大船渡のほうが平らな部分が少なく、その分高田よりも、被災面積が少なく見えました。しかし悲惨な状況には変わりはありませんでした。その時に、「船が川に沿ってあそこまで運ばれたんだよ」と説明されたのですが、橋の欄干は、壊れていません。それだけ津波の高さが高かったのです。

あれから、大船渡の義叔父が亡くなり、高田の義伯母が亡くなり、義母が亡くなりました。そのたびに行っています。そのたびに変わっていきます。

希望の橋

今、陸前高田は、9~12mのかさ上げ工事が終わったそうです。自分はまだ行っていません。商業施設もできたようです。しかし、住宅は戻ってこないそうです。 自分の従兄も、もともとは、今かさ上げされた市街地に住んでいて、住んでいた家は流さました。かなり早い段階で、山のほうに家を建てているので、元住んでいたところには戻らないといっています。

昔々、40年前に、義父とか、従兄とかと話をした時のことが思い出されました。「東京の考えは自分勝手だよね。」というのでした。それも別々に。 義父と、大船渡市のはずれのほうの、新しい道路を通っていた時でした。自分が、「あまり通行量もないのに、こんなに広い道路をまた作っているけど、無駄ですよね。木を伐り倒して、山を削って自然保護とかいう感覚がないんじゃないかと思いますよね。」と話したときに言われました。 「それは東京の人が考えることだよな。ここに道路が必要ではないんだよ。仕事が必要なんだよ。緑はいらないくらいある。よそから来て、遠くから山を見れば緑いっぱいで、たくさん木があるようだけれども、山に入ってみてみなよ。木が売れないから間伐や枝打ちなどの手入れをしていない、ヒョロヒョロの売れない木ばかりだよ。そのままにしていても山は荒れるばかりで、道路にした方が地元の業者の仕事になるし、山崩れなどの災害を起こさないで済む。」 地元に住んでいる人たちの実感です。そうか、道路を作る場所がなくなった時は、自然復旧を理由に、その道路を壊すことを仕事にすればいいんだ。

人口はその当時からも減り続けていました。

かさ上げ工事が始まったころの、漏れ伝わる住民の話は、「あんなことをしてどうなるの!土木業者は、よそから来ているんだよ。地元じゃない。宿泊施設と飯屋だけは、今はいいよ。でも、工事が終わって、工事関係者が引き上げた後、どうするんだろう。そして、ここはどうなるんだろう。」

陸前高田の町を見て、一言でいうと魅力がなくなったという一言で終わります。海岸線には、松林がなくなって(このことはしょうがないと思います。植林もしています。)、かさ上げが済んだが家の建たないところはただの、一面の砂利の平地。これからそこに生えてくるであろうセイタマアワダチソウやブタクサの原っぱを想像するとき、そんな場所に、どう見れば住みたくなるのだろう。

40年も前から人口減少が始まっていて、その対策が功を奏したことはなく、過疎化が進んでいたところへの大震災。その復興事業と称する中央の土木業者だけが儲かる施策の数々。かさ上げ工事の土砂を運ぶための、空中に張り巡らされたあの巨大な鉄管。あれは地元の業者ではできません。何か策があってのかさ上げ工事ではなく、かさ上げ工事をするのが目的でやっているようにしか思えませんでした。

自分に莫大なお金があったら、このあたりをどうするか、どう再生させるかを夢想したことがありました。復興計画をどうするこうするといっていた時期でした。

再生ではなく、新たな産業の創生です。(既存施設との競合などは考えの外です。ただの夢です。念のため)

このあたりの良いところは、三陸の海の幸がものすごくおいしい。田も畑も山も、農産物がおいしい。気仙大工と呼ばれていた建築集団がある。大船渡には、10万トンの埠頭がある。

自分が夢想したのは、陸前高田の被災してしまったあの地域を2分して、半分の土地には最先端の医療を施すことが出来て、世界中からその治療を受けに来るような、研究施設も充実した、大総合病院を建てるというものです。

かさ上げ・埋め立てではなく、人工地盤です。通過車両の道路はこの範囲からは外し、既存の地盤面にします。人工地盤の地下部分は、電線、給排水などこの空間を使います。この地下空間に力を削ぐ工夫をして津波を通す。そうすれば、堤防は高くする必要はないと思うのです。

実際、あの津波の後で残っている建物はRC造の建物でした。車で逃げる人用に、1~2本の広い避難用道路を一直線に高台まで作ります。人は建物の上のほうに逃げます。

「堤防の高さを高くしたから、今後東日本大震災程度の地震で津波が来ても大丈夫です」、と言ってもそれ以上の津波では乗り越えてくるわけです。 田老の堤防は、今度の震災前から、40年以上前から、「なにこれ!」と思うくらいの高さでした。その堤防は、その当時これなら絶対大丈夫として作ったはずです。今回、それを乗り越えています。

大丈夫と思う、だから、避難が遅れた人もいた。

 

病院は、世界中からここの治療を受けたいといわれるくらいの病院とすると、それ相応の交通手段を考えねばなりません。大船渡港をもっと整備して大きな客船が横付けできるようにします。そして、ヘリポートも3機分くらいは作れるんではないでしょうか。仙台空港からの高速道路は建築中です。

建築する土地は借地でよいのです。地元の人たちに借地料を払うのです。相続のたびに買い取れば良いのです。土地を半分残すのは、伊勢神宮と同じで、病院設備が古くなった時に、30年後か40年後かに、もう半分に新しく建ててから、既存を壊す。そうすれば、いつまでもこの病院は最新鋭設備ですと謳える。

病院の最上階に霊安室を設けます。(これは、父が亡くなった時に霊安室がその病院の地下の一番奥まった、暗くいかにもお化けでも出てきそうなところだったのがものすごく嫌だったからです。)旅立たれた方を送り出すのに太平洋を見ながら送るようにするのです。

半分の空き地部分には、下で農作業などができる程度の高さに太陽光パネルを敷設する。他にも再生可能エネルギーを作り出す施設を作り、原子力発電に頼らない、自然エネルギー自立地域とする。

幹部クラスの居住用家屋は、気仙杉を使い、気仙大工の腕を発揮させる、100年間持たせることが出来る純和風住宅にします。 仕事が続くように少しづつ建てます。 理事長用、院長用、副院長用、事務長用、各科医長用くらいまででしょうか。もっとかな? スタッフ用の集合住宅、患者さんの付き添い家族用宿泊施設そのような施設も作ります。 この人たちに地域の食材を供給するようにします。入院患者に出す食事は、このあたりでとれる食材をふんだんに使い、ものすごくおいしいものを供給する。 そうすれば、地元の一次産業の人たちは供給先が目の前にあることになり、目の前で喜んでいる姿を見ることが出来ます。安定もします。もちろん既存の施設も利用します。

医療スタッフは世界から呼んでくる。その人たちがここに永住してもよいと思えるようにするのです。 看護師、介護士など医療スタッフ教育施設も作ります。大船渡の越喜来には元水産学部がありました。そこも使います。若い人たちが集まります。

夢   夢   夢   夢   夢   夢

 

陸前高田と大船渡のあたりを昔は気仙地方と言いました。父、母、妻の故郷を元気にするにはどうすればいいんだろうと考えてこのようなことを思ったのですが、これは自分勝手で狭量な、大きすぎる夢です。

三陸沿岸で被災された地域は本当に広い。全体を考えるべきなんです。 けれども、そうしているうちに、あちこちで、大災害(熊本、大阪、北海道地震。中国地方、北海道水害・土砂崩れ、もっともっと)が発生してしまいました。追いつかなくなってしまいした。

平安時代の人たちは、こういうことが続くと祟りだといい、中国の昔の人たちは、その時の為政者の徳がなくなったからだといいました。

どっちでしょう?  徳かなあ~ 徳だよねー   誰のだろう? ・・・

-雑記帳