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追悼 ひろさちやさん

肝臓がんのため、4月7日に85歳でお亡くなりになったことを新聞で知りました.  
東京新聞で2002年2月から2012年3月まで連載されていた「ひろさちやのほどほど人生論」を毎回楽しみに読ませてもらい、自分は会社のホームページに書いている文章に何回も引用させていただきました。ひろさちやさんの肩書は、宗教評論家とされています。

自分は高校2年生の8月ころから腰が痛くなりはじめて、椎間板ヘルニアと診断されました。大学受験の勉強を加速させなければならないときに、授業に出ても椅子に座り続けるのもつらく、一日おきに病院にも通わなければならず(治療は牽引が主でした。それとコルセット)、病院に行けばお昼過ぎまで学校には戻れませんでした。

受験勉強は痛みを堪えて続けましたね。椅子に座ると痛みが強くなるので、箱の上に正座で机に向かっていました。正座も足がしびれるので長くは続きませんでした。だから椅子と正座の組み合わせでした。
その時に思ったことは御多分に漏れず「なぜ自分が?なぜ今なの?」でした。 痛みを我慢して絶対に合格する!という気持ちではありました。 とにかく、一番嫌いな科目が数学、その次が物理だというのに、建築学科に進むために理科系コースを選びましたから、わき目を振るような余裕もなかったのです。 まあ、合格はできませんでした。 浪人してからは集中力が落ちてしまったので、成績も落ちました。 希望の大学に進学しようという試験勉強は不本意な結果に終わりました。
「どうして自分が?どうして今?」と考えた時は、「痛くなくなれば楽だろうな~」などという事を考えてしまいましたね。 予備校の時にも痛みは続いていました。宗教の本なども読むようになりました。 我が家は浄土真宗大谷派です。いわゆる 他力本願 という事を言います。「歎異抄」を読みました。
しかし、若い時 自力でどうにかするのが男じゃないか! でした。 鈴木大拙の著作など禅宗の本も読みました。  正法眼蔵などにも目を通しました。(これは読むというところまではいきませんでした)

そうこうしているうちに、痛みが薄れたというか、痛みに慣れたのだろうとは思いますが普通に動けるようになり、普通に遊ぶようになりました。腰が痛くなるのは、持病だとしてあきらめの境地でした。 しょうがない! という考えになりました。

 卒業し、就職し、家業に戻り、結婚し、夢中で働き、時間があるときに本を読むという事ができるようになりました。 ジャンルは、中国と日本の時代小説がメインで、中国は三国志の前まで、日本の小説は奈良時代まで。ただし、山岡荘八の徳川家康は読みました。 

宗教を主題の小説も愛読書でした。遠藤周作、立松和平、五木寛之などを読みました。「重源」(伊藤ていじ)とか、「親鸞」(丹羽文雄、五木寛之)「蓮如」とか。千日回峰行を満行された大阿闍梨の本も読みました。 本を読むというのに拍車がかかったのは、娘の学校の山崎誠三理事長先生の影響だったです。理事長先生はものすごい読書家でした。

そして、阿弥陀様の衆生を救うという本願=他力を心から信じる、おすがりするという 他力本願 のすごさが分かり始めたのは、40代の後半、50代くらいになってからだったと思います。 そして、ひろさちやさんの「ほどほど人生論」に出会いました。自分は仏教徒だと思っています。そして、宗派を何のかんのというのは好みません。 「ほどほど人生論」を読んだ時、すべてがすとんと腑に落ちるのを感じました。 お釈迦様の教えを本当に分かりやすく書いてくれていました。   キリスト教もイスラム教も、日本仏教にもいろいろな宗派があります。  お釈迦様の教えは一つです。「ほどほど人生論」を読んで感じました。 お釈迦様の考えを伝えるときに、解釈を加えていうので、派ができてしまったのではないのかな?という事を考えさせてもらった方でした。 

きっとお釈迦様のもとに行っているのかなあ~。
心からご冥福をお祈りします。

父の実家は、岩手の岡田本家から分家されてから7代は浄土真宗のお寺にお墓がある浄土真宗の門徒です。父は実家の次男坊でしたから、その分家です。ちなみに自分も、毎日お仏壇に正信偈を唱える門徒だと思っております。 

小脳梗塞に罹った時に一度空に向かって飛んで行って戻った自分は、「これは、自分はお浄土にいけるということだ」と考えてしまいましたが、お迎えを受けたわけではなかったのです。 
そのことを感じたら、阿弥陀如来様の本願を信じて、阿弥陀如来様がお迎えに来るまで、今を一所懸命に行きることにしています。 
まだまだこちらでやるべきことがあるのでしょう。「もういいよ!」となった時に、お迎えに来てもらえると思っています。 

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