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2024年春の東北旅行記

出発4月17日 ~帰京23日

思い立って東北旅行に行くことにしました。自分は昨年秋以来、様々な病気に見舞われました。そのような体調不良の中で、1月には大船渡の小さい時から懇意にしていた2歳若かった従弟が亡くなり、2月にはお世話になった義伯母が95歳で亡くなりました。それなのに、自分の体調不良で、どちらにもお弔いに行くことができませんでした。特に義伯母の時はホテルまで予約したにもかかわらず直前に体調が悪くなり行けませんでした。

陸前高田市の本家には数年前に帯状疱疹を患って以来体調が良くない87歳の従兄がいます。大船渡には88歳になる母方の叔母がいます。盛岡には98歳の義叔父と95歳の叔母、そして病気がちな84歳の叔父もいます。

自分自身がこんなにいろいろと病気が続くと今後どうなるか。歳を取った叔父叔母や親戚に、今じゃないと会えなくなってしまうという思いが強くなり旅行を決心しました。

以前であれば、「何日から何日まで東北のどことどこに旅行に行くので」、と言って旅行会社に頼めば宿を選んでくれました。今は自分自身がインターネット経由で予約するのですね。慣れた人にとってはなんていう事は無いのでしょうが、これには結構時間がかかりました。一番困ったことは宿のことが分からないことでした。点数が高い方が良い、といいますけれども自分はあまりあてにはしないようにしています。 今回、宿泊はビジネスホテルを選びましたから、評判を気にすることは少なかったのでホテルの立地主体で選びました。最後の一日は温泉にしようとしたら、それが思ったよりも大変でした。宿の内容と宿泊費との兼ね合いというかそこのところが分かりません。今までは頼んでいた旅行会社の人の知識でここが良いですよ、と言われればそこにしていたのです。

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4月17

12時に富津市の住民の女房殿が池袋まで出てくれて、西口で待ち合わせました。「富津まで行けば良いのに」、という意見もあったのですが、行くとなると走行距離が約160km加算されます。今回は常磐道経由で行くことにしていました。理由は二つあります。一つは守谷SAで“飲むヨーグルト”を買う事と、もう一つは日立市を過ぎたあたりの交通量が少なくなった時に女房殿に運転を替わってもらおうと考えたからです。車はトヨタ86、前進6速のマニュアル車ですので、東北道では車が混むので無理だと思ってそうしました。結局のところ全行程で運転手は変わりませんでした。

目的地の陸前高田・大船渡までの途中、仙台で一泊します。その理由は「550kmを一日ではどうかな?」という気が弱くなった思いからです。 それから、仙台にいる友人“K”夫婦と久しぶりに会うというのも目的の一つです。彼も年初に心臓で入院しました。もうみんながそんな歳なのです。

全くの偶然に、千葉県に住む友人“I” 夫婦が17日に仙台に来ていることが分かり、3組の夫婦で夕食を一緒にすることができました。

コロナ禍の前までは、年に一回、4組の夫婦+1人が温泉で集まるという旅行をしていたのですが、幹事役を担う事が多い自分の体調不良もあり、ここのところやっていませんでした。1組の夫婦+1人少ないですが、偶然にそれが出来たわけです。I夫婦が泊まっていたホテルも階数は違いましたが同じホテルでした。偶然が重なりました。会食は、Kがセットしてくれて18:30くらいから21時過ぎまでみんなで話が尽きませんでした。

18日

今日は陸前高田の親戚2軒と女房殿の同級生O家の3か所、そして先方の都合が良ければ1月に亡くなったN家にお参りしたいという予定です。9時ころにホテルを出て仙台港北インターチェンジから三陸道に入ります。宮城県内はほぼ片側2車線の道でした。三陸道で困ったのは、トイレとガソリン補給です。三滝堂はインターを降りてすぐに道の駅がありましたが、11:30頃についた大谷海岸は、インターを降りて少し一般道を走っての場所でした。ここの景色は良かったです。海鮮ラーメンもおいしかった。しかし、何を勘違いしたのか三陸道に戻るときに1本曲がる交差点を間違えてしまいました。若いころには無かった、慨嘆。でもロスは6~7分くらいでした。

陸前高田長部インターを降りて、最初の目的地O家に着きました。牛を50数頭飼育している酪農家で、お庭は広い日本庭園でこの時には枝垂れ桜が満開でした。息子さんはこの春獣医師の免許を取り、岩手県の北部で研修医として働いているそうです。ご主人は癌で治療中とのことでした。そのご主人も一緒に2時間近くお話をしました。お祝いとお見舞いを兼ねての訪問でした。 

ここをでて、岡田の本家に向かいます。O家を出て数分で旧高田町が見えてきました。そこから見る町並みというかかさ上げした地域は以前来た時に感じたように、何もないと言っていいような感じです。確かにお店が少し増えたようには感じましたがそれだけです。作り物の一本松もくたびれてきたように感じました。「こんなことして、人が集まるわけないじゃないの」。初めて来たときと同じ感想です。ここらあたりから見える一帯は全く変わりました。思い出の場所は何もありません。 ただただこんなことして!という感想しか出てきません。

ここらは、20年30年後には落ち着いた景色になるのでしょうか?はたまた廃れた景色になるのでしょうか? 所詮、自身の成功体験が強い、そのことから離れられない人間が計画したものです。既に、新しい発想がわいてこなくなった人が考えた計画です。悲しいけれども期待できないし、自分にはそれを見ることは無いです。地元の人たちはどんな気持ちなのでしょう?

ここらに限らず、三陸地方全体ですが、あの大災害の前から人口減少が言われてきた地域です。イオンだのを引っ張ってきたところで、一旦この地を離れて10年間よそで生活基盤を再構築した人たちは戻ることはできません。何か安定的に高収入が期待できるような新しい事業を考えて、人を雇用することを考えなければならなかったのです。それを考えられない人が計画してしまったのです。 ここに住んでいた親戚の人たち、町の人たちも冷めた目というよりもさげすんだ眼で、あの人たちがやることを見ていましたっけ。

そのようなことを考えながら車を走らせました。本家のあたりは海岸から少し離れていて、小高いところなので海岸に近いところと比べて、さして津波の爪痕とかを感じませんでした。しかしものすごく家が増えました。復興作業のさなかに一度来たことはあったのですが、今回あまりに変わりすぎていて、本家への道も分からなくなっていました。カンでこの辺だろうと入った道が正解で、本当にやっと、たどり着けました。

着いたら一番にびっくりされました。昨年来の病気のことを知らせていたのですが、ものすごく心配をさせてしまっていたみたいで、東京から自動車で来たことで驚かせてしまったようでした。まあ、かかりつけの医師からは「もちょっとさきのほうがよいと思いますよ」、と言われていたくらいなので、びっくりするのが当然かもしれないと思いました。

従弟も帯状疱疹を患っています。従弟とは同病相憐れむみたいな話になりました。その時に聞いた話では、この辺りの集落ではあの大災害の後、所帯数が倍になったという事でした。確かに草原だった斜面が区画されて住宅地になっていますし、さもありなんです。

もう一軒の親戚の家には自力でたどり着けませんでした。以前に行った時は、その家だけが出来ていて、何もなかったのです。今回は区画されたところにはすべて家が建っていますし、資材置き場や床屋さんも出来ていました。そこまでの道すがらにも家が建っていました。以前の一山、ふた山だったところが住宅地になっています。入り口の道が分かりませんでした。ここだろうと思って一本の道に入ってはバックで戻ったりしたのです。結局迎えに来てもらっちゃいました。

こちらでのお話の中では、普通の家がたくさん建ったのだけれども、コンビニがこの辺にないため車で行かなければならず、すごく不便だ、というものでした。もう少し下の方が良かったな、などという事も言っていました。ここの家はこの辺りで1番最初に立てられた家です。

陸前高田の予定を終えて大船渡に向かいます。こっちもすっかり変わっていました。空いている土地が少なくなったと感じました。良い方に変わったという印象があります。

泊まる予定のホテルは高い建物ですし、以前にも泊まりましたし看板もありましたからすぐにわかりました。名は大船渡プラザホテルです。

ホテルにチェックインしてから、亡くなった従弟のN家に電話を入れたら息子さんが出られて、訪問OKでしたので、お参りが出来ました。ここは江戸時代から18代続いている家です。津波前の庭には樹齢200年くらいという、枝の長さ10m弱くらいの松の木があったのですが、津波の渦で根元でねじ切られたという事でした。今は1階部分をピロティ―形式の駐車場2,3回を住まいとしていますので、面影は全くありません。

突然に当主となった跡取りはまだ結婚していません。予定はあるそうです。しかし、こちらには給料の良い仕事が少ないそうで、関東に行って働くようになると言っていました。 また若い人が出て行ってしまうようです。

夕食は、ホテルのそばの、夢横丁とかキャッセン大船渡という地区に行って探しました。ここらあたりも以前は仮設が多かったのですが、本気でやっているお店が増えたように思いました。  “湾岸食堂”という名のお店に入りました。海鮮にはちょっとばかり食傷気味になっていたので洋食メニューのあるお店に入ったのです。

19日

プラザホテルの朝食はおいしかったです。御多分に漏れず、ビュッフェ形式ですが、スタッフの方たちの対応も良く満足しました。

今日は大船渡の盛町方面の家々を訪問します。 9時半ころにホテルを出て、まず最初に、女房殿の従姉さんの家に行きます。ご主人が癌で仙台の病院に通っているという事でそのお見舞いも兼ねています。お元気そうでした。そしてそこでは、次に行く所、亡き義伯母さまの様子を聞くという目的もありました。まだ事情があって納骨されていないということでした。

この義伯母さまは一代で数百人の収容者を抱える介護施設を立ち上げた人です。陛下からも御下賜金を頂いたり、秋篠宮様のご視察を受けたりしたほどのお仕事をした人でした。葬儀には財務大臣、県知事、市長など多数の人が参列したようです。 近郷の菊が無くなるほどの盛儀だったという事でした。葬儀に行けなくなって良かったというのが本音です。

盛町内にある介護施設の3階部分が晩年の住まいだったそうです。そこに行きお線香をあげさせてもらい、理事長さんともお会いし、ややしばし、お話をしました。

その後、今回の旅行の主たる目的の一つであるS家のA子叔母さんのところに行くことができました。既に13時を回っていました。昼食を用意してくれていて、首を長くして待っていてくれました。家は建て替えたばかりで、新築の臭いがしました。IHコンロだそうで叔母はまだ操作に慣れていないようでした。 従妹も仕事の合間に戻ってきてくれました。ここで16時過ぎまでお話が出来ました。

ここでの話の最中に、女房殿の従姉さんから、夕食を一緒にしましょうというお誘いを受けました。場所は、“ポルコロッソ”というイタリアンのお店です。女房殿の従弟Yがオーナーシェフをしています。じつは、その日の夕食をそこですることを考えていたところでした。

Yは大船渡市盛町出身です。板橋の自分の自宅の近所にあるイタリアン料理“カッチャトーレ”というお店で、数年間修行して大船渡に戻って開業したものです。開店直後のあたりに、食べに行った時にはカッチャトーレの味をそのまま再現していました。

その時に、自分は偉そうに「地元の食材がすごくおいしいのだからそれを生かした料理を食べさせてよ」などと言ったものでした。今回食べさせてもらったところ、見事に地元の優良食材を使って、ものすごくおいしい料理を堪能させてもらいました。食材を提供している人たちとのネットワークも構築されていました。今では県内のみならず、東北各県、関東からも来る常連さんが付いているようです。

“ポルコロッソ”で、18時過ぎから22時くらいまで話込んでしまいました。まだ話たりないくらいでした。そして、こんなにもおいしい料理なのにお酒も楽しめたらば、さらにどんなにおいしいだろうと思いました。お酒を飲めないことをこれほど残念に思ったことはありませんでした。尿道閉塞になるのが怖かったのです。病気が恨めしかった。

自分は好んでお酒だけを飲むことはありません。食事と一緒にします。おいしいものを、なお一層おいしくいただくためには、健康でいることが必須の条件です。おいしいものを、さらにおいしくいただくために、健康にならなければならないと思ったものです。 泊まりは昨晩と同じプラザホテルでした。

蛇足ながら、Yは東北大震災の時、地域の飲食関係の人たちとも協力して、その人たちをとりまとめ、“リアスホール”に避難してきた人たちに対して、食事を提供したりしていました。その時、新聞に“2000人の大食堂”という見出しで出ていました。

もう一つの蛇足話。亡くなった義伯母は、震災直後から自分が運営している介護施設のひとつを被災者に食事を提供する場所として開放し、やはり2000人の人たちに提供していたという事でした。延べにすると万人単位になると思います。地震その後の津波という事態にあって、すぐに職員にお金を手渡し近隣の農家からお米を買い出しにやり、必要資材を買い集めさせたそうです。傑物。女傑というのでしょうね。

20日

今朝、朝早くからやっているコインランドリーに行って洗濯・乾燥してきました。歩いて5分かからない場所です。投入と回収の2回往復しました。朝の散歩にはちょうど良い距離でした。気候も良かった。真冬では車でないと行きません。

8:00には朝食を済ませて、9:00頃にホテルを出発しました。ホテルのすぐ近くにあるガソリンスタンドで給油しました。走行距離が580キロになっていました。

その後、前日のお礼とお別れのあいさつのためにのために叔母の家に寄りました。盛岡の叔母から昼食を用意して待っているという電話があったそうでした。出発しようとしたらば、隣にあるおふくろさんの実家から、会うのが30数年ぶり位になる従妹が出てきました。そこは普段は空き家です。びっくりです。そして、女房殿の従姉さんの家に行き、同じく前日のお礼とお別れのあいさつです。

それらを済ませてから、一路、盛岡を目指して出発です。30分くらい走ったところでトラブル発生。女房殿のスマホがありません。ホテルに電話をして部屋を探してもらいました。スマホを忘れてきたのが分かりました。当然戻りました。1時間のロスでした。

走って感じたのですが、大震災の復興事業により、国道4号線に沿った市と三陸の市とを結ぶ道路がすごくよくなっていました。昔、岩手県で国体が開催された時に道路整備が進んだのを覚えていますが、それに増して整備されて快適でした。1時間のロスが無ければ楽に12時には盛岡に着けると思っていましたが、到着は13時を回ってしまいました。義叔父・叔母の家は盛岡市内の北部になり、盛岡駅まで車で20~30分かくらいの場所でした。

現在、盛岡の義叔父は98歳、叔母は95歳です。普段は二人暮らしです。素晴らしいことです。

ちょっと遅い昼食をごちそうになり、その後お二人とお話をしました。今まで、叔母とはよく話をしましたが、義叔父とはほとんど話をしたことはありませんでした。今回は違いました。義叔父は、ご自身がシベリアで抑留されていた時の話をしてくれました。叔母によると、最近になって、人がくるとその話をするようになったという事です。叔母もそれまでシベリアで抑留されていた時の話を聞いたことは無かったという事です。

聞くと本当に悲惨な状況だったという事が分かりました。生きて帰ったのがそれこそ奇跡だと思いました。そのように言っていました。日本に戻ってから、今でも仲間たちに申し訳ないという思いが消えないという事を話していました。

自分には想像できないくらいの悲惨な思いを、今言わなけれならないという気持ちがわいてきたのだと思います。到底気持ちを慮ることは出来ませんが、どうしてもその悲惨さを伝えなければならない、という一念だと思います。今回の旅行の意味が分かりました。

もう一組の叔父、義伯母の夫婦が盛岡にいるのですが、叔父は入院していて、コロナのこともあり、面会は予約で15分だけ。義伯母は施設に入っているという事で、会う事がかないませんでした。残念でした。

義叔父、叔母の家を辞してホテルに向かいました。やはりビジネスホテルです。ホテルの場所は盛岡市内の菜園通りに面していました。盛岡というところは、すごく緑が多いというのを感じました。 北上川に沿って走りましたが、河川敷も適度にあり、並木の若葉がきれいで、心が安らぐ都市という印象でした。

ちょっとだけ予定を変更してチェックインは少し早めにしました。それというのも、女房殿にアレルギー症状が出てしまい、早く休ませたいということでそうしました。少し休んでも良くならず、病院に行った方が良いと判断し、病院を探して電話を掛けましたが、なかなか受け入れてくれるところが見つかりませんでした。 やっとのことで、岩手医大付属病院が見てくれるという事になり、車で向かいました。盛岡市の南の紫波町にあります。くるまで30分くらいかかりました。すごく立派な建物群でした。敷地も広く、救急の入り口を捜すのにちょっとだけ迷いました。夜間の出入り口と救急の出入り口は違う場所でした。点滴などの処置を施してもらい、少し気分が良くなったようで助けられました。

この日の夕食には短角牛のお肉を食べたいと思っていたのですが、やめにしました。「一人で行ってくれば、」と言われたのですが、そのようなことは出来ません! ホテルの隣に雰囲気の良さそうな居酒屋さんがあり、そこに入ったのですが、正解でした。

不思議なのです。盛岡には数回来ていますが、どういうわけか、どうしても短角牛のお肉を食べられません。なんでだろう?なんでだろう?です。

21日

快晴です。気持ちの良い快晴です。朝食は、いつものビュッフェ形式で他のところと変わらない料理が多いのですが、2つ3つ、目新しいものもありました。おいしいと思いました。

今日の予定は、盛岡八幡宮への参拝とカワトクデパートでの買い物。(お土産買いは前日の予定でした。)それを済ませて東北道を走って鬼怒川温泉までです。 

盛岡八幡宮

盛岡八幡宮は素晴らしい神社でした。朝早い時間なので参拝者も少なく、空気も澄んでいて遠くに雪の残った山も見え、大きな木々の緑に赤い社殿も映えて、荘厳さを増していました。そして外国人が多いのを実感しました。

もう少し居たかったのですが、デパートでの買い物の時間が読めないので、引き上げました。カワトクでの一番の目的は、お土産に“東雲”を買い求める事でした。盛岡名産のお菓子です。売り場に行ったらまだ並んでいません。聞いたら入荷が遅れているとのことでした。しかし店員さんが走ってバックヤードから段ボール箱を持ってきてくれて買う事が出来ました。駐車場に入るのにも並びましたし、このようなことがあるので時間が読めないのです。

 買い物を済ませ、いよいよ帰り道になります。盛岡インターから東北自動車道に乗るのですが、インターまでの道沿いの彼岸桜がまさに満開で、残雪のある岩手山がそびえている光景は素晴らしいものでした。

 高速道に入って間もなく制限速度が120キロになる区間になりました。ややしばしその区間を走り、120キロを楽しみました。そして制限速度が100キロ区間になりました。自分はそのままのスピードで走っていました。ご想像の通りの結果になりました。覆面パトカーに補足され、反則切符を切られてしまいました。 これで、短角牛の代わりに前沢牛を、と思っていた目論見もなくなりました。義弟のいる寒河江に寄る計画をとりやめていたので、山形牛は無かったのですが、 まあ、今回は牛肉には縁が無かったという事なのです。

 東北道では、長者ヶ原、安達太良、上河内のSAで休みました。上河内で給油しました。ガソリンの残量はほとんどない状態でした。

 18:00に鬼怒川温泉のホテルにチェックイン出来ました。速度違反で時間を取られなければもう少し早く着いたのになあ~。 たられば! ×   この時、女房殿はアレルギー症状がまた出始めていました。薬の効果が切れてきていたと思われます。

 ホテルから夕食の時間は19:00から20:00までの間で決められます、という事だったので19:30としました。それでお風呂は食後という事にしました。

 案内されたのは、広めの部屋で、廊下、広縁全て畳敷きです。 良い雰囲気の部屋でした。荷物を下ろし、浴衣に着替えてくつろぎました。 まもなく夕食の時間になり、食事場所まで行きました。

 きれいな設えでおいしそうな料理が並んでいます。いつも後から思うのですが写真を撮りませんでした。係の人がそれぞれを説明してくれました。実際おいしい食事でした。 ただ、女房殿は、用心をして、食べても問題が無いと思われるものしか口にしませんでした。 その分がこちらに回って来て、おなかは鉢切れそうでした。これは、大浴場に行って鏡を見た時に後悔しました。いつもよりもおなかが前に出ているのです。まあ、しょうがない事ではあるのですが・・・ おふろの湯は気持ちが良かったです。大浴場には、もう一人入っていただけで貸し切り状態でゆっくりと温まって入ることができました。

鬼怒川温泉のホテル

22日

 いよいよ最終日です。天気は曇りがちといったところです。

朝食は、昨晩の夕食会場と同じ場所で、同じようにそれぞれの料理の説明がありました。おいしかったです。ビュッフェ形式も好きなものを好きな分量で食べられてよいのですが、こうやって食べるのも良いものです。

チェックアウトを済ませて、車に荷物を積み込み、出発というときにお見送りの仲居さんに夫婦の写真を撮ってもらいました。

最初の予定では日光に行く予定でしたが、体調を考えてやめにし、直接、富津に向かう事にしました。今日の17:30にきみつ腎・泌尿器クリニックに予約が入っているのでそれには間に合わせなければなりません。

途中、大谷PA,羽生PAで休憩しました。大谷PAはお土産を買うためでした。さして渋滞も無く、非常に順調に帰ってこれまして、富津に着いたのは14時ころでした。まあ、日光に行かなかったのでこの時間に帰れたのです。 クリニックに電話して早めの診察時間にかえてもらいました。 こうして東北旅行は事故も無く終了することができました。その時どういうわけか、まだ疲れが出ていませんでした。自分としては今回の旅程は余裕をもって計画したので当然!みたいな気持ちでした。

23日

朝のうちの開院間もない時間に女房殿を皮膚科クリニックに連れていき、買い物を済ませ、お昼過ぎに富津をたって板橋に帰りました。 富津から板橋まで2時間程度で帰ってこれました。これで、自分も今回の旅行はすべて終わりです。

困ったことにまだ自分が疲れていることを感じていませんでした。しかし、随分とテンションが高かったようで、息子がそのことを心配していました。

翌日になって、違和感を覚えました。考えがまとまらないのです。やらなければならないことを考えてやろうとしてもまとまらないのです。出来ないのです。そうすると、どっと疲れてしまったのです。 動くのがやっとでした。 年齢は正直に出ました。

年齢相応に体力は無くなっているのだよ!というのを自覚出来ないのがいつまで続くやら。さっさと自覚してもっとゆったりした計画を考えなければなりません。 反省!!!

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