この8月末に大船渡の叔父が亡くなり、急に大船渡に行くことにしました。この叔父は、母の実家を継いでいました。 しかし、義叔母が大船渡の病院では診られない病気に罹り、盛岡に居を移し、そこに住んで病院に通っていました。ご本人も10数年前に癌にかかり、盛岡で治療していました。この時の癌は寛解していました。お正月、お彼岸、お盆など、そして町のお祭りの時などには、大船渡に帰って来てという生活をここ三十年くらい続けていました。
余談ですけれども、ここの五年祭というお祭りは一見の価値があると思います。5年祭という事で、毎回5年目に行われています。この地域の一大行事です。(盛町五年祭で検索すると出てきます。)盛町の各地区がそれぞれ山車や踊りを披露して町内を練り歩きます。このお祭りはここ盛町だけではなく、年を変えて大船渡市内の各町単位で、行われます。例えば、大船渡市大船渡町とか、そして立根、佐野、綾里とかです。五年祭を今まで2回くらい見ています。1回目は、今富津にいる女房殿とのお見合いの時でした。
話を戻します。自分たち夫婦が今年の4月に東北旅行をしたときには、叔父は入院していて、会う事が出来ませんでした。面会の予約を一週間前にしないと会えない状況でした。
その後退院して、退院祝いなどもしたと聞いていましたが、結局こちらの体の具合が万全ではなく、会いに行けずじまいでした。
今回、従姉から訃報の電話をもらったときは、叔父は良くなったと聞いていましたし、会えずにいたのが心に引っ掛かり、動揺しました。そしてすぐに大船渡行きをすることにしました。と言いますのも、こちらでは、亡くなるとまず火葬にします。それから通夜式、告別式が執り行われます。そういう事で、知らせを受けてすぐに向かわないと、生身の叔父を拝むことが出来なくなってしまうのです。車で行こうと思いました。
しかし、富津の女房殿はその時咳がひどくて仕事も休んでいる状態でしたので、車を一人で運転して、というのは正直なところ自信がありませんでした。一人で行くとすると列車かバスです。新幹線や夜行バスを予約しようとしましたが、いっぱいで出来ませんでした。それに、車が無いと向こうで大変に不自由をします。
色々と考えまして、埼玉にいる弟に電話をして一緒に運転して行ってくれないかと聞いたところ、すぐにOKしてくれました。 移動手段は決まりました。次に宿の手配です。四月にじゃらんで宿を予約した経験を生かせると思いました。 ここで間違っていたことがホテルについてから発覚しました。
当日、朝九時ころに板橋を出発し、弟宅に向かいました。一時間くらいかかりました。10時ころ出発でした。最初は自分の運転です。 10分かからないくらいの近くのサービスエリアからETC専用の入り口を入り関越道に入ることができました。圏央道経由で東北道に乗ります。便利ですね~。 板橋からだと戸田まで下道を行って外環道に入り、川口ジャンクションで東北道に乗ります。
ちょうど台風10号が沖縄、九州沖あたりをぐずぐずしている時で、突然に雨が降ってくる、不安定な気候の時期でした。しかし、雨に降られずに順調な滑り出しでした。最初の休憩を上河内サービスエリアで取りました。 昔の話をすると、岩手まで行くときに、最初の休憩をとるのは安達太良サービスエリアに決まっていました。陸前高田、大船渡までのちょうど中間点だったからです。 弟が「運転を代ろうか?」と言ってくれましたが、「安達太良までは運転するよ。」と言って断りました。
しかしながら、もう昔の自分ではないのです。 安達太良までの距離は「こんなにあったっけ?」と思うくらい長かったです。自分で言ったのだからそこに着くまでは絶対に代わらないと決めて運転しましたが、やっと着いたというのが正直な気持ちでした。
運転を替わってもらいましたが、乗っている車は、トヨタの86です。6速マニュアル車です。弟はマニュアル車を運転するのは20数年ぶりと言っていました。やはり、出だしはぎこちなかったです。SA駐車場内ではギアチェンジのたびに首がカクンカクンで、エンストしがちでしたが、それでもスムーズに本線に合流しました。一度合流してしまえば、高速道路はマニュアルもオートマも同じです。6速に入れたまま運転していました。今回もまた4月と同じように、仙台で東北道を外れ、三陸道を経由して大船渡に向かいます。
助手席に座ると周りの景色を見ることができます。4月に来た時は、桜と菜の花がきれいでまだ田植えもできていなかったのですが、今はもう稲の穂が色づいていました。季節の移ろいが早いです。 歳を取って、時間の進むのがものすごく早いです。車のスピードは遅くなっています。
三陸道には、SAがありません。トイレなどは一旦高速道を下りて、道の駅に入らなければなりません。 この点がものすごく心配だったのですが、今回は、どこに下りることなく大船渡インターまで行くことが出来ました。無事に大船渡プラザホテルに到着です。埼玉を出てから6時間でした。
東北道を通って一関インターでおりて下道を走るのも、観光ならば猊鼻渓とか見どころがあるのですが、三陸道の方は、当然信号のない一本道です。仙台からでしたら運転は楽ですし、時間も早いと思います。
さて、ホテルに着きました。フロントに行きました。ここで先に書いた問題発生です。 インターネットで予約した日にちを一日間違えていました。フロントで「予約頂いておりません。」と言われてしまったのです。「うそ~。ちゃんと予約したよ。」と言って、もう一度調べてもらったら、翌日の予約でした。同じタイプの部屋が空いていたので、事なきを得ました。
これで終わりませんでした。部屋のキーカードをもらって部屋に入ったところ、ダブルベッドでした。いくら兄弟とはいえ、どんなものでしょう。予約した時のことを思い起こすと、あの時はかなりテンパッていたようでした。日にちも間違えたし、部屋のタイプも間違っていました。ツインとダブルですけど、ダブルを二つと勘違いしていたようです。
焦って物事を進めてはいけません。交通事故無く大船渡に着いたことに感謝です。弟がフロントで、もう一部屋シングルが空いていないか聞いて、もう一部屋取ることが出来ました。
急いで、黒服に着替えて、安置されているセレモニーホールに行くことにします。フロントで、式場の名前を言って場所を案内してもらおうとしました。そうしたら、フロントの人が「スマホを貸してください。」というのです。そして、こちらのスマホを操作し、道案内を表示してくれました。紙に書いてくれるのを考えていた自分にとって、アナログを感じた一瞬でした。今はわざわざ聞かなくても名前が分かれば場所までの案内をしてくれるのです。そこが時代に追いついていないのだ、と感じました。
式場では、納棺が始まっていました。ギリギリ間に合いました。故人に会うことが出来、触ってお別れすることが出来ました。 納棺の儀が終わってからは、お手伝いしてくだった遠い親戚の方たちとお話しできました。 「初めまして。」の方たちです。岡田光雄とはだれかというところからの説明です。
初めにご紹介いただいたのは、おふくろさんの従兄、当然故人にとっても従兄です。この方のお兄さんは板橋の家にいたことがあったので面識がありましたが、この方とは初めてお会いしました。この時の話で、自分が生まれた時に出生届を出しに行ったのが、もう一人一緒に住んでいた従兄さんで、区役所に行ってくれていたそうです。74年前の話です。 もう一組は、自分の祖父の弟の子供たちという事でした。こんな時にしか会うことは出来ない親戚です。遠いです。しかし、どことなく、盛の人たちの顔でした。
この方々が帰られた後、久しぶりに会った従妹さんたちとのお話になりました。当然昔話です。40年前の話でした。自分たちの結婚式に、おやじさん(陸前高田出身)、おふくろさん(大船渡市出身)の親戚(総勢30数人)が岩手から来てくれ、みんながうちに泊まって、夜、高田と大船渡の演芸大会でした。大船渡の圧勝でした。なんの勝負でしょう?
よほど高田側の親戚は悔しかったのか、その後の弟の結婚式には事前合宿して稽古をして、乗り込んできたものでした。その時も大船渡の勝ちでした。 うちら兄弟4人ですがそのたびに演芸合戦でした。故人の前で、その時の話で大盛り上がりしました。
結婚式のあたりでは知りませんで、後になって知ったのでしたが、山の通岡峠のこっちとあっちの関係になる大船渡と高田は仲があまり良くなかったという事だったようです。
そこを辞して、ホテルに戻り、ホテルのそばの“きやっせん”にある寿司割烹で夕食を取りました。おいしかったです。やはり漁港のそばです。マグロも入っていましたが、三陸のお魚を満喫できました。
翌朝8:30から、ご出棺の儀です。お坊さんが見えてお経をあげてくださいました。宗派は曹洞宗です。般若心経はわかりましたが、他はわかりません。午後、火葬に付されるという事でした。自分たちは、台風10号のこともあり、通夜式、告別式には出席せず帰ることにしました。 叔母さんたちにお別れのご挨拶をして、大船渡を出発です。10時近くでした。出発時は自分の運転でしたが、この日は何か疲れた感がひどく、仙台を過ぎてそんなに距離の無い国見サービスエリアで運転を替わってもらいました。 そして、結局、弟の家まで運転してもらいました。この旅は弟に運転をしてもらわなければ、行けなかったと思います。叔父に会うことが出来、本当に感謝です。