木造住宅建築イメージ

建築について考えました。 

今上天皇の祝賀御列(おんれつ)の儀も終了しました。5月から年号も変わり、御代替わりの年ですが、自分も代替わりを考えています。そのような今日この頃、自分が携わってきた、建築 というものについて思いだしながら書いてみることにします

岡田建設の歴史

自分は、岩手県陸前高田市から結婚を機に上京して大工をやっていた父の長男として生まれました。昭和25年です。 父が昭和26年に当地上板橋5丁目に新居を建て、建築請負業を創業し、昭和30年に株式会社組織にしました。それ以来、下職の人たちから、後継ぎとみなされて、「2代目」「2代目」と言われて育ってきました。そのころの岡田建設は、今はなくなっていますけれど、日○○○という大きな建設会社の下請けをしていました。それが岡田建設の基盤を作り、成長させていただきました。感謝です。

その頃の大工さんが使う釘は、長さ別にそれぞれ木製の樽に入っていました。樽の直径は上下の部分で1尺程度、胴の部分で1尺2寸位、高さは2尺位あるいは2.5尺位だったように記憶しています。(今あるものでそれを想像できるものは何があるか考えましたが、思いつきません。昔のビアガーデンの木製ビール樽とか。それも想像の助けにはならないかもしれませんね。)

大工さんたちは、その樽の中から手づかみで釘を取り出し、腰に下げた釘袋に入れます。床にこぼしてもそのままで、拾うことはなく、余ったら長さには関係なく、それ用の樽の中に、入れます。当然長さのまちまちな、少しさびた釘がおがくずと一緒に樽の中に貯まります。

小学校の低学年、中学年のころの手伝いに、それらを長さ別に分けることをしました。1キロいくらという約束でお小遣いをもらいましたが、指先に釘の先があたると、痛かったです。 小学校の高学年にもなると、材木運びを手伝いました。もちろんあまり重いものではありません。しかし重かった記憶しかありません。そのころ、マキ割もしましたね。材木の切れ端がたくさん出ましたから、マキの材料には不自由することがないわけで、ご飯を炊くのも、お風呂を沸かすのもマキでした。 材木の切れ端というのは、柱や梁を必要な長さに切った残りのことです。大体40㎝から50㎝くらいの切れ端を斧で割るのが手伝いでした。節があったりするとものすごく大変でした。

岡田建設の歴史

ホゾ穴の加工も手伝いました。このころ、佐野製作所製のホゾ穴加工機が発売されて、一世を風靡していました。それを使っての作業でした。日本中の工務店が使いました。 30数年後、そこの社長の佐野さんの別荘を、裏磐梯の国立公園内で、建てさせていただくことになりました。建物の打ち合わせの時に、ホゾ穴加工木工機の話が出て、結構、盛り上りました。面白い、奇縁だと思いました。

そして、私立の中高一貫校に入学しました。中学の2年生の時に、代数と物理で赤点を取りました。特訓をしてやっと進級させてもらいました。高校2年生の三学期に、理科系・文科系の進路別けがあり、「理科系に行く」と、先生に伝えましたら「なぜ、お前が理科系?」と言われるくらい、英語、国語、日本史は、そこそこ良かったのですが、数学、物理の成績は非常にというくらい悪かったです。嫌いな科目でした。 そのころ、クラスの連中に、適性はどんな職業か?という事に悩んで、それについて書いてある本などを読んでいるやつがいました。それを借りて読んで試してみたら、建築は全くのハズレでした。

自分の中では、建築学科を目指す以外に選択する気もなく、客観的には、無謀・無茶という以外に言い方はない選択です。 しかし、何の迷いもなかったですね。ちなみに、「慶應の工学部を推薦してやる」と学年主任の先生から言われましたが、「あそこには建築学科がないから。」と言って断りました。見込んでくれた、その先生には大恩を感じています。遠い、遠い思い出です。

建築学科に入って、授業を受けるようになり、大変に困ったのは、建築設計デザインです。自分がそれに向いていないのを痛感しました。 なぜなら、職人に囲まれて生活していて、現場にも父が連れて行ってくれましたから、「こんなデザインをしたら、工事が非常にやりにくいな。」というのがわかるから、大胆なデザインができないのです。自分は生まれながらの施工側の立場ですから、やれないのです。 図面を書くスピードは速かったです。教室の他の人たちが3週間で書き上げる課題を2週間で、それも余らせて書き上げていました。

学校を卒業し、他人の飯を食わさせてもらいましたが、そこはRC造ビル専門の施工会社です。 そして、意匠設計事務所の言う通りに仕事を進めるのが決まり事です。 あの頃は、施工図面はもちろん、道路使用の図面、足場の図面、労働基準監督署に出す申請書なども自分たちで書かなければなりませんでした。今はそういう施工図、申請図まで書く代願の事務所があり、現場監督が書かなくてもよくなりました。良い事か良くないことか?

ウチの建築現場に携わる職人さんで、ビル現場でも働く職人の人たちの話を聞くと、「現場監督が図面を頭の中に入れてないから、おさまりが悪くてどうしようもないよ。」という声をよく聞くようです。 自分は、施工図を書くことによって、頭の中に現場のことが入っていたように思っています。その点、今は分業化されていて学習の機会がなくなり、かわいそうな気もします。

また昔話になりますが、現場が主に住宅の町場(マチバ)とビルの野丁場(ノチョウバ)と言われ、職人も分かれていました。お互いにはあまり行き来もありませんでした。ですから先ほどの、ビルの現場に行っている職人の話を、住宅の現場で聞くというのはほとんどなかったことでした。

自分は、言わずと、修行に行く前は、町場現場育ちです。修行として勤めた会社は野丁場専門でした。やさしさというか、あたりの柔らかさというか、職人の違いにびっくりしました。特に、大学出の新米が会社に入って最初に配属された現場で、町場と野丁場の土工さん(土方)の違いはすごいというしかなかったです。 山谷とか池袋、高田馬場から、いわゆる立ちん坊と言われている人たちを、手配師と言われる人がその日必要な人数をその現場に連れてくるのです。

小指がなかったり、彫物を線彫りしてあったりの人たちで、そのような人たちは町場にいなかったので戸惑ったものでした。(付け足しますと、小指を無くすのはやくざの社会で主に女関係の不始末があったから。線彫りするのは、金もないのに、一時の思い付きで彫り始めて、すぐに痛さで我慢できなかくて彫るのをやめたからといわれていて、要するに、すぐにかっとなる、はねっ帰りの半端ものと言われていました)

その上、彼らは基本、働かないでお金をもらおうと考えているのが多く、目を離すと仕事をさぼる人たちが多かったような気がします。 自分は、いったん頼めばきちんとやり終えて呉れる人たちしか知りませんでしたから、心底戸惑いました。「世に中にはこういう考え方の人間もいるのだ!」とものすごいカルチャーショックを受けました。この現場では本当にいろいろと学習させていただきました。

そこの現場が進むにつれて、今度は、肘から先、膝から下、首から上を除いて、全身にオール天然色の彫物をする人たちが入ってきました。左官職人でした。6人くらいのグループ全員が見事だったです。鯉だったり、弁天様だったり、般若だったり。こういう人たちは、仕事もきちんとしていました。きちんと色を付けるところまで我慢のできる、半端者ではないという事です。

この人たちとの思い出としては、「上手な職人は、こちらの技量を見て仕事を加減できる」というのを教えてもらったことでした。ある職人が、壁をモルタルで塗る仕事をして、一応出来上がったのですが、自分が見て、おかしいところを指摘しました。 「ここのところはきちんと見せてよ。こっちは見ないでおくからさ!」と言ったのですが、悪いところだけでなく全部、自分から壊してすべて塗りなおして出来上がったのは、本当に素晴らしい出来でした。角は、きれいな直線です。壁面は、横から壁に付けた懐中電灯で照らしても、波が見えませんでした。できる人でした。こちらを試したのです。 こういうのは現場の面白さです。楽しかったです。

岡田建設に戻ってきてからの話です。ある現場で、そこを設計した設計事務所の人と話をした時、「うちの職人たちはあなたが見ている前で、あなたがわからないように手抜きができる職人ばかりですよ。」と言われました。 その時、設計の人は「手抜きをするような職人を使うな!」と怒鳴っていました。 でも自分が言いたかったのは、「設計やさん、見抜ける目を持ってくださいね。職人たちは、僕の前ではやれませんよ。やらせませんよ。(そんなこと当たり前ではないか)」という事です。現場監督の仕事は、上手な職人にそのすべての力を思う存分、気持ちよく発揮させることです。修行先で学んだことです。

やみくもに怒るような人のに限って、図面の不備を指摘すると、「いいんだ!」と逆に怒るだけで、こちらがその図面の通りに施工したら、「イメージと違うから壊してやり直せ!」です。 きちんと「ここはダメですよ、こういう風にやった方がよいのではないですか。」と、こちらで対案図面を書いて指摘したにもかかわらずです。設計と施工の間の言語は図面です。イメージも図面で伝えなければなりません。伝わらない図面は論外。図面と呼びたくはありません。それができないというのは、設計者として無能という言葉でしかありません。  こちらに非はないので、やり直しの追加の金額はいただきます、と言ったところそのままで良いとなりました。

蛇足ですが、このことは、一般の建て主さんと設計・施工の間でのことではありません。建て主さんは素人です。イメージを図面で伝えることはできないと考えています。それが当然です。それは、口からの言葉、あるいは写真でしか伝えられないと思っています。プロはそれらを的確、正確に読み取って図面化をしなければなりません。我々がプロ設計者と名乗るのであれば、それができなければなりませんし、出来ないと考えたならば、プロフェッショナルと名乗ってはいけません。出来上がってイメージと大きく違っていたならば、それは、建て主の伝え方が悪いのではなく、きちんと受け取れなかった我々の責任です。

その後、その現場の竣工検査も無事終了し、引き渡しも済んでから、設計事務所の担当者から、「今度、こういう現場をお願いします。」と電話がありました。自分は、新宿区の設計事務所まで出向いてお断りしました。せっかくのお仕事を、依頼を受けたその電話でお断りするというのがとんでもなく失礼であると考えるからです。 もう一度別件で施工を依頼する電話がありました。 また、お断りしました。今度は電話で。 その設計事務所さんは10年くらいたって廃業しました。 こわいですね~。しかし、施主様の考えを組み止められないのであれば、評判は落ちますよね。プロとは呼べない。

こんな時期に、日○○○の下請け仕事をするのをやめました。 あそこはすでに建築のプロではなくなっていると感じたのが大きな理由です。

自分はプロ同士で、丁々発止。真剣勝負で仕事をしたいし、してきました。それがものすごく面白い。プロとは思えない、施工会社や設計事務所とは一緒に仕事をしたくない。プロとは呼べない職人ともしたくない。自分としては、施主さんの抱いている、あるいは期待している建物を期待以上にして引き渡す。ただそれだけでした。見方によってはものすごく生意気です。非難されても甘受します。 坊ちゃん育ちの2代目社長のすごく甘い考えでしょう。自分は経営者としてはプロではないかもしれません、失格者かもしれません。しかし、建物を作りあげることにかけてはプロでいたいと思っています。

ギョエテは、「建築は凍れる音楽である」と言ったそうです。ドイツ語で。自分の浅はかな脳力でその意味を解析したのですが、 音楽(交響曲とします)は、まず作曲を依頼する人がいます。 作曲家が作曲し、譜面を書きます。 演奏の前には、指揮者が、作曲者の意図を読み解き、各パートの演奏者にその考えを伝えて、練習する。 そして観衆の前で演奏するという事になります。演奏した音楽が形として残る事はありません。

建築に置き換えてみます。 建て主さんから建築を依頼されます。設計がデザインをし、図面化します。図面を現場担当が読んで、各職人に、ああせい、こうせいと伝え、その監督下で仕事をやってもらいます。出来上がったものは目に見える形になります。

その時、設計が、監督が、職人が、それぞれが、100%の力を出して当たり前。120%の力を出すために何をすべきかを考えるのが監督だと思っています。

自分は3年前から、板橋の第九合唱団に入り歌い始めました。3年前、最初の時に仲間に自己紹介の場でいったことが、すごいダジャレでした。「自分は、大工の倅として生まれ、今、第九の合唱に参加することになった、奇縁を感じています。」とやったものでした。

板橋区第九演奏会及び合唱の指揮者、独唱者は毎年変わります。 同じ譜面なのに、指揮者によって印象が違うのがものすごく面白く、それでまた、建築についても、設計図面が同じでも、作る側の建築集団によって変わるのだ、という思いを強く感じます。

また、指揮者の耳はとてつもなく良いですね。指揮者だけではなく、音楽に携わっている人は全部がそういう耳を持っているのでしょう。 各パートの演奏者の一人が半音違っても、指摘できるのです。 自分も仕事ではそういう目を持っていたいと思いますが、なにぶんにも加齢による老化で網膜剥離になって以来、目に自信がなくなりました。カレーを食いすぎて、廊下を走ってこけたかんじ。 まあ、息子がそういう目を持ち始めているので、もうそろそろ、という考えが出てきたわけです。

建築というのはものすごく面白いと思っています。自分が考えて、図面化し、それが形になって見えて来る。その間、たくさんの人たちの協力をもらいながら。人の人生の大半をかけたものを作っているという責任。それに応えているという自負。

若いころ、建築業をやっている仲間から、「よく近所や、友達の家をそんなにできるなあ。おれは嫌だね。」と言われたことがあります。期待を背負う自信がないのでしょうかね。

そして、建築をやってきて思う、最も大きな事ですが、出会いの程度が深いと思います。家の中をすべて見ます。家族それぞれとお話させてもらいます。愚痴などを聞くのは当たり前。建物以外の話、いろいろと相談事や悩みも聞きます。 建主さんのすべてを知ることからそのお宅の求めているものを引き出すお手伝いもしているのです。

すごくおこがましい事というのは十分に知っていますが、いま、ご自身の就職や、生き方に悩んでいる人たちに言いたいのは、好きなことを探したいと言ってチャンスを逃すこともあるし、自分を信じて流れに身を任せ、縁のあった仕事、場所で一所懸命やっていくという選択肢もあるよ、と話したいです。

自分にはあっていないと書いてあった。それを信じて別の道を行く。それも人生だと思います。 信じたのなら、とりあえず、一所懸命それをやってください。1か月やそこらで、ましてや1日や2日で自分にはあっていないと決めつけるその判断をしてしまうことがわかりません。そんなにすぐ判断ができるのならば、どうして1日や2日でやめる仕事につく判断をしたのか。自分が建築という仕事を面白いと考えるようになったのは、どのくらい時間がたってからか。いつごろからだったのか。申し訳ありませんが、もう覚えていません。 若いうちにいろいろと経験をしろ!ということも事実だろうと思います。 自分は特定の宗教を強烈に信じているわけではありません。しかし、大きな力が存在するという事は信じられます。信じています。それを信じて流れに身を任せて一所懸命にやっていくことを躊躇しないでもらいたいなと考えます。

ここにきて、子供茶道教室をやったり、子供食堂を計画したりしています。茶室は、まだ早いと言われていますけど、自分の建築人生の集大成と考えました。何度も言ったり書いたりしていますが、茶道は日本文化の粋を集めたものです。ほんとに、ほんとに、微力ですが、子供たちにそれを少しでも伝えたいのです。町の建築屋のおやじが考える域と超えている、考えることではない、という声も聞こえてくるような事です。だから、道楽と言ってごまかしています。 今教室にいる子供たちが大きくなって茶道をもっとやってくれるようになるかどうかを見られることはないと思っています。今それができるから、それでよいのです。 できることがものすごくありがたい事です。建築が与えてくれたご褒美と思うくらいありがたい事です。

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